小西行長が築いた織豊系城郭。関ヶ原で敗れ廃城となったキリシタン大名の拠点。

1. 導入:なぜ、今それを語るのか?
- 商人出身のキリシタン大名・小西行長が1589年に築いた織豊系城郭。
- 関ヶ原の戦いで西軍に属して敗北、城は宿敵・加藤清正の手に渡った。
- 「熊本城の宇土櫓は移築された」という伝説は否定されたが、その物語こそが城を語り継ぐ。
「商人が築き、武人が奪い、伝説が残した城」
宇土城は、戦国時代の「勝者の歴史」からこぼれ落ちた城です。築城主・小西行長は関ヶ原で敗れて処刑され、城は隣国のライバル・加藤清正に接収されました。
しかし、皮肉なことに、否定された「宇土櫓移築伝説」こそが、この城の存在を400年以上語り継がせているのです。
2. 起源の物語:商人から大名へ
小西行長とは何者か
小西行長(1558?〜1600年)は、堺の薬種商・小西隆佐の子として生まれました。
商人の家系に生まれながら、豊臣秀吉に見出されて武将となったという異色の経歴を持ちます。特に外交・交渉能力に長け、朝鮮出兵では講和交渉を担当しました。
キリシタン大名としての行長
行長は熱心なキリシタンであり、洗礼名「アウグスティヌス」を持っていました。
- 城下にセミナリヨ(神学校)を設置
- 領内でのキリスト教布教を奨励
- ポルトガル・スペインとの南蛮貿易を推進
3. 核心とメカニズム:宇土城の「凄さ」
3.1 海と繋がる「水城」
宇土城は有明海に面した小高い丘(城山)に築かれました。
城の最大の特徴は、水堀と運河によって海と繋がる「惣構え」を形成していたことです。これにより:
- 海上交通・水運の掌握
- 天草・島原方面への軍事的睨み
- 南蛮貿易の拠点機能
を兼ね備えた、商人出身らしい実利的な設計でした。
3.2 先進的なインフラ——上水道
発掘調査により、当時としては極めて珍しい木樋(もくひ)を利用した上水道施設が確認されています。
これは織豊系城郭の中でも先進的な設備であり、行長の高い技術的・文化的水準を示しています。
3.3 金箔瓦と秀吉の威光
発掘調査では金箔瓦も出土しており、秀吉政権下での行長の地位の高さを物語っています。
4. 関ヶ原と運命の逆転
西軍への参加
1600年、関ヶ原の戦いで行長は西軍に属しました。
石田三成とは朝鮮出兵時からの盟友関係にあり、また武闘派の加藤清正・福島正則らとは対立関係にあったためです。
敗北と処刑
西軍の敗北後、行長は捕らえられ、京都六条河原で斬首されました。
加藤清正の接収
行長の処刑後、宇土城は隣国のライバル・加藤清正の所有となりました。
清正は宇土城を隠居城として改修しましたが、完成を見ずに1611年に死去。その後「一国一城令」により廃城となりました。
5. 知られざる真実:「宇土櫓伝説」の皮肉
熊本城の「宇土櫓」
熊本城には現存する五階櫓「宇土櫓」があります。
長らく「宇土城の天守を移築したもの」と信じられてきましたが、平成の解体修理と発掘調査により、建築様式や寸法が合わないことが判明。現在は「宇土城から移築されたものではない(熊本城で新築された)」という説が有力です。
否定された伝説が城を救った
しかし、歴史の皮肉はここにあります。
この「移築伝説」こそが、宇土城という存在を400年以上語り継がせたのです。
関ヶ原で敗れ、城主は処刑され、城は破壊された——本来なら忘れ去られるはずの城が、「熊本城の一部として生き延びた」という物語によって、人々の記憶に残り続けました。
6. 現代への遺産
城山公園
現在、宇土城跡は「城山公園」として整備されています。
- 小西行長ブロンズ像: 有明海を見つめる姿
- 本丸跡: 石垣の痕跡、空堀
- 眺望: 有明海と普賢岳を望む絶景
国指定史跡
2005年、宇土城跡は国指定史跡に登録されました。発掘調査により「幻の城」の姿が徐々に明らかになっています。
7. 関連記事
8. 出典・参考資料
- Wikipedia「宇土城」:城の概要と歴史
- 宇土市公式サイト:史跡情報
- 熊本県観光ガイド:観光情報
一次資料・古典
| 資料名 | 概要 |
|---|---|
| 『小西行長記』 | 行長の事績に関する記録 |
| 宇土市発掘調査報告書 | 金箔瓦、上水道施設の発見 |
関連史跡
| 場所 | 概要 |
|---|---|
| 宇土城跡(城山公園) | 国指定史跡、小西行長像 |
| 熊本城宇土櫓 | 重要文化財、移築伝説の舞台 |
| 天草キリシタン館 | 行長時代のキリシタン文化 |