慶長の役で加藤清正が籠城。この飢餓体験が熊本城の設計に影響を与えた。

1. 導入:なぜ、今それを語るのか?
- 慶長の役(1597年)で加藤清正が朝鮮半島に築いた日本式城郭。
- 完成直前に明・朝鮮連合軍に包囲され、馬の血をすすり壁土を齧る壮絶な籠城戦を戦った。
- この「地獄」の経験が、後の熊本城の設計思想——井戸120本、食料になる植物——に繋がった。
「死の淵を見た男が築いた城は、二度と飢えない城だった」
蔚山倭城は、朝鮮出兵という日本史の「負の遺産」の舞台です。しかし同時に、極限状態を生き延びた武将が、その教訓を未来の城づくりに活かしたという、城郭史における重要な転換点でもあります。
2. 起源の物語:突貫工事の最前線基地
慶長の役と蔚山
1597年、豊臣秀吉は再び朝鮮出兵(慶長の役)を開始しました。
加藤清正は、日本軍の最前線拠点として蔚山湾を見下ろす丘(島山)に城を築くことを命じられます。
- 場所: 現在の韓国・蔚山広域市
- 築城年: 1597年11月〜
- 工期: わずか約40日
- 構造: 梯郭式平山城
40日の突貫工事
敵の接近が迫る中、清正は驚異的な速度で城を築きました。
美しさよりも実用性を最重視した野面積みの石垣は、崩れにくく堅固。その耐久性は、400年以上経った現代まで残るほどです。
3. 核心とメカニズム:蔚山城の戦い
3.1 包囲——完成直前の悪夢
1597年12月22日、城の完成を目前にして、数万の明・朝鮮連合軍が蔚山城を包囲しました。
城内の日本軍は:
- 兵力: 約10,000人(諸説あり)
- 食料: 十分な備蓄なし
- 水: 水路を断たれる
という絶望的な状況に置かれました。
3.2 地獄——飢餓との戦い
- 馬の血をすすって渇きを凌いだ
- 壁土を齧って飢えをしのいだ
- 兵士たちは極度の飢餓と寒さで次々と倒れた
これは戦闘による死傷よりも、飢えと寒さによる消耗との戦いでした。
3.3 生還——援軍の到着
約10日間の籠城の末、毛利秀元率いる援軍が到着。明・朝鮮連合軍は撤退し、清正は九死に一生を得ました。
しかし、この「地獄」の記憶は、清正の心に深く刻まれました。
4. 現代への遺産:熊本城に刻まれたトラウマ
清正のトラウマと教訓
蔚山での飢餓体験は、清正が帰国後に築いた熊本城の設計に決定的な影響を与えました。
| 蔚山での教訓 | 熊本城での対策 |
|---|---|
| 水が断たれた | 井戸120本以上を城内に掘る |
| 食料が尽きた | 銀杏の木を植える(実が食料になる) |
| 壁土を齧った | 芋茎(ずいき)を壁材に練り込む |
| 籠城が長期化 | 大量の備蓄を可能にする構造 |
熊本城は「二度と蔚山の悲劇を繰り返さない」という清正の執念の結晶なのです。
鶴城公園として
現在、蔚山倭城跡は韓国・蔚山市の「鶴城公園」として整備されています。
侵略と防衛という痛ましい歴史の舞台ですが、歴史を冷静に見つめ直すための史跡として保存されています。
5. 知られざる真実
清正自らが城を破壊
1598年、豊臣秀吉の死去により日本軍は撤退を開始しました。
蔚山倭城は、敵に利用されることを防ぐため、清正自身の手によって破壊・放棄されました。
石垣の「日本式」
現地に残る石垣は、明らかに朝鮮式とは異なる「日本式」の技法で積まれています。
これは、戦国日本の城郭技術が海を越えて持ち込まれた証拠であり、日韓の歴史が交錯する貴重な遺構となっています。
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7. 出典・参考資料
- Wikipedia「蔚山倭城」:城の概要と籠城戦
- Wikipedia「蔚山城の戦い」:戦闘の詳細
一次資料・古典
| 資料名 | 概要 |
|---|---|
| 『清正記』 | 加藤清正の事績に関する記録 |
| 『朝鮮王朝実録』 | 朝鮮側からの記録 |
関連史跡
| 場所 | 概要 |
|---|---|
| 鶴城公園(蔚山市) | 蔚山倭城跡、石垣が現存 |
| 熊本城(熊本市) | 清正が蔚山の教訓を活かして築城 |