1651 江戸 📍 関東 🏯 uchida

下総小見川藩:殉死の功徳で生き延びた「1万石ギリギリ大名」

#殉死 #サバイバル #小藩 #千葉

「忠義」と「乱心」の果てに。大名最低ラインの1万石で明治まで生き残った、しぶとい小藩の物語。

下総小見川藩:1万石のサバイバル

1. 導入:なぜ、今それを語るのか?

3行でわかる下総小見川藩:
  • 藩祖・内田正信は徳川家光に殉死した忠臣。この「殉死の功徳」が家を救った。
  • 孫の代で「乱心」により領地を減らされ、1万石(大名の最低ライン)で左遷。
  • 最後の藩主は廃藩置県後に警察官となり、西南戦争に従軍した。

「殉死の忠義で立ち、乱心の罪で流れ着いた藩」

歴史の表舞台には出てこない小藩ですが、その裏には中小企業のようなリアルな「お家存続のドラマ」が詰まっています。


2. 起源の物語:殉死と転落

藩祖・内田正信の殉死

小見川藩の「功徳の源」は、藩祖・内田正信にあります。

内田正信とは:
  • 徳川家光の寵愛を受けた小姓
  • 1651年、家光が没した際に後を追って殉死
  • 武士の鑑として称えられた

この「殉死の功績」があったからこそ、後の子孫が不祥事を起こしてもお家取り潰しを免れたと言われています。

孫の代での転落

しかし、3代藩主・**正偏(まさゆき)**が「乱心して妻を傷つける」という事件を起こし、蟄居閉門に。

家督を継いだ正親は、罪により領地を減らされ(1万5000石→1万石)、栃木の鹿沼から小見川へ**「左遷」**されました。

これが小見川藩内田家の始まりです。


3. 核心とメカニズム:1万石のサバイバル

3.1 ギリギリの財政

石高は1万石。これは「大名」と名乗れる最低ラインです。

少しでも収穫が減れば財政は火の車となり、常に苦しい運営を強いられました。城を持たず、陣屋(簡素な役所)での質素な政務が想像されます。

3.2 利根川水運の恩恵

小見川は利根川下流に位置し、水運の要衝としての側面も持っていました。

これが藩の経済を微力ながら支えていたと考えられます。

3.3 殉死の功徳

祖父が「将軍への殉死」という武士の鑑のような最期を遂げた英雄だったため、孫が不祥事を起こしても改易(取り潰し)にならずに踏みとどまれたのでしょう。


4. 幕末・維新のサバイバル

迷いと決断

当初は譜代大名らしく佐幕(幕府側)の姿勢を見せ、将軍家の菩提寺・増上寺の警備を担当していました。

しかし、戊辰戦争が始まると藩内での議論の末、新政府軍に恭順。大きな戦闘に巻き込まれることなく藩の存続を図りました。

西南戦争に従軍した殿様

最後の藩主・内田正学は、廃藩置県後に陸軍〜警察の道へ進みます。

正学のその後:
  • 明治10年(1877年)の西南戦争に「警部心得」として出征
  • かつての殿様が、現場指揮官として西郷隆盛軍と戦った

5. 知られざる真実

小学校になった陣屋

かつて藩庁があった「小見川陣屋」の跡地は、現在**「小見川中央小学校」**になっています。

校門付近には「小見川藩庁跡」の碑が立っており、子供たちが毎日登下校する場所が、かつての政治の中心地でした。

エリートからの転落と復活

祖父が「殉死の英雄」、孫が「乱心で左遷」という落差。しかし、明治まで家を繋いだのは、殉死の功徳とその後の当主たちの必死の努力があったからでしょう。


6. 関連記事

  • 土井利勝 — 殉死を禁じる制度を整えた老中(正信の殉死はその前)
  • 保科正之 — 殉死禁止令を発布した会津藩主

7. 出典・参考資料

参考資料:

関連史跡

場所概要
小見川中央小学校(千葉県香取市)小見川陣屋跡、「藩庁跡」の碑あり