朝廷に帰順するも差別と屈辱に耐えかね、国府・多賀城を焼き討ちにした俘囚。「宝亀の乱」を引き起こし、38年戦争の口火を切った。

1. 導入:なぜ、今それを語るのか?
- 朝廷に帰順した蝦夷(俘囚)でありながら、差別と抑圧に耐えかねて780年に決起した男。
- 当時の国府・多賀城を焼き討ちにし、按察使・紀広純を殺害するという前代未聞の大事件を起こした。
- この「宝亀の乱」が、朝廷による東北完全制圧——38年戦争の導火線となった。
「彼は裏切り者だったのか、それとも抑圧に対する抵抗者だったのか。」
伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)の名は、日本史の教科書ではほとんど取り上げられません。しかし、彼の起こした反乱がなければ、阿弖流為(アテルイ)の戦いも、坂上田村麻呂の征夷も、そして「征夷大将軍」という職名も、おそらく存在しなかったでしょう。
2. 俘囚という境界的存在
2.1 帰順した蝦夷
呰麻呂は、朝廷に帰順した蝦夷(えみし)でした。帰順した蝦夷には「俘囚」という身分が与えられました。
- 朝廷に服従し、「公」などの姓を賜る
- 在地の有力者として地位を認められる
- しかし、大和の官人からは差別と蔑視を受ける
呰麻呂は「伊治公(いじのきみ)」という姓を持ち、伊治城(現在の宮城県栗原市)一帯を治める有力な俘囚でした。
2.2 差別と抑圧
呰麻呂が朝廷に仕えていた時期、彼は上司である按察使の**紀広純(きのひろずみ)**から、繰り返し侮辱を受けていたと伝えられています。
蝦夷出身者は、どれほど功績を挙げても、大和人からは「野蛮人」と見なされ続けました。
この構造的な差別が、呰麻呂の心に積もり積もった怒りとなります。
3. 宝亀の乱(780年)
3.1 決起の瞬間
宝亀11年(780年)3月、呰麻呂は突如として反乱を起こしました。
彼は軍勢を率いて、自らの上司である按察使・紀広純を殺害。さらに、当時の東北経営の中心地である多賀城(現在の宮城県多賀城市)を襲撃し、焼き払いました。
- 国府焼き討ち:東北最大の朝廷拠点が炎上
- 按察使殺害:朝廷の最高責任者が殺される
- 帰順蝦夷の反乱:「味方」だと思っていた者が牙を剥いた
これは、朝廷にとって前代未聞の大事件でした。
3.2 反乱の波及
呰麻呂の反乱は、東北各地の蝦夷を呼応させました。これまで表面上従順だった俘囚たちが次々と蜂起し、朝廷の支配は根底から揺らぎました。
呰麻呂の決起は、「帰順した蝦夷も信用できない」という衝撃を朝廷に与えたのです。
4. 38年戦争の始まり
4.1 「東北完全制圧」のスイッチ
宝亀の乱をきっかけに、朝廷は東北政策を根本的に転換しました。
これまでの「懐柔と帰順」から、**「軍事力による完全制圧」**へ。
- 780年:宝亀の乱、呰麻呂の決起
- 789年:紀古佐美軍がアテルイに大敗(巣伏の戦い)
- 794年〜:桓武天皇が本格的な蝦夷征伐を命令
- 802年:アテルイ降伏、胆沢城築城
呰麻呂の反乱がなければ、朝廷はこれほど大規模な軍事行動に踏み切らなかったかもしれません。
4.2 呰麻呂のその後
反乱後、呰麻呂がどうなったかは、史料にはっきりと記されていません。
一説には、彼は蝦夷の地に逃れ、その後の抵抗運動に参加したとも言われますが、確証はありません。
歴史から姿を消した呰麻呂ですが、彼が点火した炎は、38年間燃え続けることになります。
5. 多賀城:東北経営の中心
5.1 国府としての多賀城
多賀城は、724年に築かれた陸奥国の国府であり、東北経営の中心拠点でした。
- 政治的機能:陸奥出羽按察使が置かれる東北統治の中枢
- 軍事的機能:蝦夷との境界を守る城柵
- 経済的機能:交易と税収の拠点
5.2 焼き討ちの意味
呰麻呂が多賀城を焼き討ちにしたのは、単なる破壊行為ではありませんでした。
それは、「お前たちの支配を認めない」という、朝廷への明確な宣戦布告でした。
国府を焼くことで、呰麻呂は朝廷の権威の象徴を灰燼に帰したのです。
6. 呰麻呂の遺産
6.1 俘囚の苦悩
呰麻呂の反乱は、俘囚という境界的存在の苦悩を象徴しています。
- 朝廷に帰順すれば、同胞から「裏切り者」と見なされる
- しかし朝廷からは、どれほど尽くしても「野蛮人」として差別される
- どちらにも居場所がない——それが俘囚の現実でした
6.2 歴史の評価
呰麻呂は、朝廷側の史料では「反逆者」として描かれています。
しかし、アテルイと同様に、彼を「抑圧に対する抵抗者」として再評価する見方もあります。
彼は、尊厳を踏みにじられた者の怒りを、行動で示した人物だったのです。
7. 関連記事
伊治公呰麻呂と蝦夷の歴史について:
- 阿弖流為(アテルイ):帝国を撃破した蝦夷の英雄 — 呰麻呂の乱の後、抵抗を続けた英雄
- 蝦夷(えみし):サムライの原型となった「まつろわぬ民」 — 俘囚の起源となった民族
- 桓武天皇:38年戦争を遂行した征夷の帝王 — 呰麻呂の乱を受けて蝦夷征伐を命じた天皇
8. 出典・参考資料
- Wikipedia「伊治呰麻呂の乱」:宝亀の乱の詳細
- Wikipedia「多賀城」:国府の歴史
一次資料・古典
| 資料名 | 概要 |
|---|---|
| 『続日本紀』 | 宝亀の乱の記録 |
| 多賀城跡出土資料 | 考古学的証拠 |
関連史跡
| 場所 | 概要 |
|---|---|
| 多賀城跡(宮城県多賀城市) | 国の特別史跡、国府の遺構 |
| 伊治城跡(宮城県栗原市) | 呰麻呂の本拠地 |